保健室の外から足音が近づいてきた。
硬い床を打つ、わずかにヒールのある靴音。
養護教諭だ、と直感する。
処置台から降りようとした瞬間、腕を強く引かれた。
視界が回転する。
次の瞬間には、ベッド脇のカーテンの内側へ押し込まれていた。
狭い。
それから息が詰まるほど、近い。
新垣が背後からカーテンを引き寄せ、二人分の身体を完全に包み込む。
逃げ場がない。
壁と、新垣の身体に挟まれている。
鼻先が触れそうな距離。
体温が伝わる。
どうして隠れたのか。
意味が分からない。
飛び出そうとして、できなかった。
新垣の手がまだ腕を掴んでいる。
逃がさないように。
足音がドアの前で止まる。
「誰?誰かいる?」
声を出した方がいい。
そう思うのに、口が動かない。
至近距離で、新垣の呼吸が頬にかかる。
――笑っている。
声は出していないのに、口元だけが緩んでいるのが分かった。
足音が近づく。
「中川くん、鼻血」
耳元で囁かれ、びくりと身体が跳ねた。
思い出したように鼻を押さえる。
「……もう止まってるよ」
新垣は、くすりと笑った。
まるで、惜しいと言うみたいに。
やがて満足したのか、身体を離す。
カーテンが開く。
急に空気が広くなり、足元が揺れた。
「あ!そこにいたの。何してたの」
養護教諭の声。
新垣は何のためらいもなく言った。
「エッチ」
あまりにも平然とした声音だった。
「違います!!」
反射的に叫ぶ。
顔が一気に熱くなる。
カーテンに押し込まれていたせいで、髪も服も乱れている。
否定しているはずなのに、むしろ説得力が増している気がした。
養護教諭はほとんど興味なさそうに「あっそう」と言い、さっきまで新垣が座っていた椅子に腰を下ろす。
「なんでもいいけど、学校でそういうことはしないように」
信じているのかいないのか分からない声音だった。
否定したいのに、言葉が出ない。
声を出せば余計に怪しくなる気がした。
チャイムが鳴る。
新垣は振り返りもせず、先に保健室を出ていった。
中川も後を追う。
何をどうするのが正解か分からないまま、ただその場から逃げたかった。
放課後の教室は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
西日が差し込み、机と椅子の影を長く引き伸ばしている。
窓際の席で、新垣は一人、机に向かっていた。
紙を擦る音。
鉛筆が迷いなく走るたび、空気がかすかに震える。
「……新垣」
名前を呼ぶと、彼は顔も上げずに言った。
「ちょうど良かった」
カリ、と芯が紙を引っかく。
「今、中川くんの絵、描いてた」
心臓が嫌な跳ね方をした。
「口の中、見せて」
一瞬、意味が分からなかった。
理解より先に、拒絶が浮かぶ。
「嫌だ」
ほとんど反射だった。
新垣はそこで初めて顔を上げた。
怒りも、困惑もない。
ただ、視線だけが静かに絡みついてくる。
逃げ場を塞ぐように。
蛇に見つかった小動物の気分だった。
「ちょっとでいいから」
低く、穏やかな声。
押しつけるでもないのに、拒否できない。
声をかけたことを後悔した。
なのに足が動かない。
断ればいい。
それだけなのに。
怖いわけじゃない。
──いつもみんなと同じでいるために必死に見える。
新垣の言った「みんな」の中に新垣は入っていない。だから怖くない。
けれど、身体は床に縫い付けられたみたいに動かない。
ゆっくりと口が開く。
その瞬間──
ガラッ、と教室の扉が開いた。
反射的にしゃがみ込む。
机の陰に身体を押し込み、息を殺した。
「……あれ? 新垣くんだけ?」
吹奏楽部の女子が数人、顔をのぞかせている。
新垣がこちらを見る。
机の下に潜り込んだ中川を、まっすぐ。
「そうだよ」
迷いのない声だった。
「今からこの教室、練習で使わせてもらっていい?」
「いいけど……」
そこで言葉を切る。
視線は外さないまま。
中川に向けたまま。
まるで選択を迫るように。
中川は必死に首を振った。
見つかったら終わる。
何が終わるのか分からないけれど。
それでも、絶対に駄目だと思った。
その様子を確認してから、新垣は言った。
「……俺の絵のモデルになってくれるなら」
一瞬、空気が凍る。
新垣はまだこちらを見ている。
うっすらと笑いながら。
女子は顔をしかめた。
「きも」
短く吐き捨てる。
自分に言われたわけでもないのに一瞬息が詰まった。
「やっぱ別の教室行こ」
ぞろぞろと足音が遠ざかり、扉が閉まった。
静寂が戻る。
心臓の音だけが異様に大きい。
恐る恐る顔を上げる。
新垣は立ち上がっていた。
表情が読めない。
「……中川くんは」
ぽつり、と落ちる声。
「俺と一緒にいるところを見られるのも、恥ずかしいんだ」
責めるでもなく、拗ねるでもなく、
ただ事実を確認するような言い方だった。
否定すればいいのに、言葉が出ない。
新垣は机の上のスケッチブックを閉じた。
「絵の件、考えといて」
それだけ言って、鞄を持つと教室を出ていった。
机の下に残されたまま、
中川はしばらく動かなかった。
今出ていけば追いついてしまう。
かける言葉も見つからないのに。
だから、出ていけなかった。
シャワーを浴びながら、今日の出来事が何度も頭をよぎる。
保健室のカーテンの中。
逃げ場のない距離。
息がかかる近さ。
――エッチ。
「うわぁぁぁ……!」
思わず声が漏れた。
湯気の中で顔を覆う。
変な誤解をされているかもしれない。
思い出すだけで胃がねじれる。
それから、もう一つ。
新垣が描いているという、自分の絵。
どんな顔をしているのか。
どんなふうに見られているのか。
ぞわ、と背筋が粟立つ。
――口の中、見せて。
その言葉が頭から離れない。
曇った鏡にシャワーをかける。
水滴の向こうに、見慣れた自分の顔が現れる。
ゆっくりと口を開く。
歯と舌、もう少し開くと喉の奥まで見える。
ただの空洞。
こんなものを見て何になるんだろう?
そう思うのに、〝見られる〟ことを想像した瞬間、身体の奥がじわりと熱を帯びた。
「……っ、きも」
鏡の中の自分に吐き捨てるように言った。
目を逸らし、乱暴に体を拭く。
急いでパジャマを着て、布団に潜り込む。
暗闇の中、静かなはずなのに頭の中だけが騒がしい。
――俺と一緒にいるところを見られるのも、恥ずかしいんだ。
「違う……」
小さく呟く。
違うと言いながら、
本当は違わないことを知っている。
新垣は昔から変わり者で、
いつも一人で、
今日だって「きも」と言われていた。
だから一緒にいるのが恥ずかしい。
それだけのはずなのに。
カーテンの中。
触れそうだった距離。
胸の鼓動。
嫌なのに。
思い出すと、また少しだけ息が乱れる。
中川は強く目を閉じた。
眠ろうとしても、
まぶたの裏に浮かぶのは、
カーテンの中で笑っていた新垣の顔だった。













