体育の授業中、不意に飛んできたバスケットボールが、中川の顔面を直撃した。
骨に響く鈍い衝撃。
鼻の奥がじん、と痺れ、遅れてぬるい感触が唇へと流れ落ちた。
手で拭うと、鮮やかな赤が皮膚に滲んだ。
「おい、大丈夫かよ!」
駆け寄ってくる足音。
その向こうで、押し殺した笑いと好奇の視線が混ざり合っているのが分かる。
見られている。
中川は顔を上げなかった。
「大丈夫」
反射的に口にした。
できれば、何事もなかったようにしていたかった。
みじめな姿をこれ以上晒したくない。
だが血は止まらず、押さえた手の甲から腕へと伝っていく。
「中川、すげー血出てる!先生!」
体育館の隅で作業をしていた三島が、ホイッスルを揺らしながら駆け寄ってきた。
「どうした?」
顔を覗き込み、血を見るなりポケットティッシュを取り出す。
周囲へ説明を求める視線が向けられ、生徒たちが口々に何か言い始めた。
中川は垂れてくる血をティッシュで受け止めながら、ただ立っていた。
「ぼーっとしていたのか?珍しいな」
その一言に、胸の奥がわずかに緩んだ。
誰が当てたかを詮索され、被害者として晒されるのだけは嫌だった。
三島はホイッスルを短く鳴らした。
「保健委員!中川を保健室に連れて行ってくれ!」
「一人で行けます」
即座に言ったが、聞き入れられなかった。
コートの外、壁際に座っていた生徒がゆっくりと立ち上がる。
——新垣だった。
他の生徒が汗に濡れたジャージ姿の中、
一人だけ制服のままでいる。
彼は体育にはほとんど参加しない。
体が弱いらしい、という噂だけは知っていた。
新垣は静かに歩いてきて、何の躊躇もなく中川の腕を掴んだ。
「行こう」
口元が、わずかに上がっていた。
新垣とは小学校から一緒だった。
同じクラスになったこともある。
だが、まともに会話した記憶はほとんどない。
いつも教室の隅で、本を読んでいるか、
ノートによく分からない絵を描いている。
人と関わることに興味がないのか、
一人が好きなのか――
いずれにせよ、誰かと打ち解けている姿を見たことがなかった。
「いいよ、一人で歩けるから」
逃げると思われているのだろうか。
腕を振りほどこうとしたが、新垣は離さなかった。
無言のまま、保健室へと連れていかれる。
中は無人だった。
中川は密かに息をついた。
誰かに世話を焼かれる姿など、見られたくない。
新垣は奥まで進むと、キャスター付きの椅子に腰を下ろした。
「……もう授業に戻れよ」
「先生いないし。俺、保健委員だし」
新垣は床を蹴り、椅子をくるりと回す。
帰る気はないらしい。
ただサボりたいだけだろ、と心の中で毒づく。
中川は処置台に腰掛け、血の染みたティッシュを捨て、新しいものを鼻に詰めた。
「これ、止まんのかな……」
鼻血などほとんど出したことがない。
ゴミ箱に溜まった赤いティッシュを見て、不安が滲む。
「そのやり方、だめだよ」
キャスターを転がす音が近づいてくる。
次の瞬間、鼻に詰めていたティッシュを引き抜かれた。
ぬるり、と血が流れ出す。
「なにする──」
「こうやって押さえるんだよ」
新垣は中川の鼻の付け根を指で挟む。
予想外に近い距離。
逃げようとすると、さらに強く押さえられた。
「動かないで。こうするとすぐ止まるから」
なんでお前にそんなこと――
きっと、そんな顔をしていた。
「俺、よく鼻血出るから」
新垣はにやりと笑った。
喉の奥を鳴らすような、低い笑い声。
その声に、記憶の底が揺れた。
小学生の頃。
体育の時間、周りが次々と成功していく中、
逆上がりだけがどうしてもできなかった。
最初から諦めている子もいた。
だが中川は違った。
何かきっかけさえあれば、
あと一歩でできるはずだと思っていた。
授業の終わりが近づき、最後の挑戦となったとき。
先生が後ろから支えようとしてズボンを掴んだ。
その瞬間、それはずるりと膝までずり落ちた。
どっと笑い声が上がる。
剥き出しになった尻に空気が触れる。
何が起きたのか理解する前に、全身が熱くなった。
みんなが見ている。
羞恥で視界が滲んだ。
先生は慌てて謝っていた。
だが何に怒ればいいのか分からず、涙だけが溢れた。
やがて笑い声は止まり、気まずい沈黙に変わる。
——一人を除いて。
一人だけ制服のまま座っている新垣が、
声を殺して、ずっと笑い続けていた。
中川は涙で歪む視界の中、必死に睨みつけた。
異様な光景だった。
中川だけじゃなく、クラス中の視線を集めながら、それでも新垣は笑い続けていた。
あの瞬間から、新垣は「苦手な存在」になった。
「ふふ……やっぱり中川くん面白い」
その声に現実へと引き戻される。
鼻を押さえられたまま、手の影から覗き込むようにして顔を近づけられる。
「中川くんって人より不器用だよね。いつもみんなと同じでいるために必死に見える。しんどくないの?」
中川は歯を食いしばった。
「……うるさい」
「泣いてるの?」
「……泣いてない!もう出てけって!」
伸ばされた手を、強く払いのけた。
これ以上何か言われたら、何もかも崩れてしまいそうだった。
「痛っ」
新垣は少しよろけたが、すぐに椅子に座り直した。
怒るでもなく、ただ笑っている。
心臓が速く打ち、全身がじわじわと熱を帯びていく。
新垣は瞬きもせず、こちらを見た。
まるで、何かを確かめるように。
中川は胸に手を当てる。
呼吸が早くなる。
血が止まっていることにも気づかないまま、中川は目の前の男から目を逸らすことができなかった。













