次の日になれば、絵のことを何か言われると思っていた。
からかわれるか、要求されるか、あるいは──。
だが新垣は、何も言ってこなかった。
翌日も、その次の日も。
ただいつも、視線だけは感じる。
教室の隅から。
背中に、首筋に、横顔に。
──見られている。
ぞわ、と肌が粟立つ。
振り向くと、目が合う寸前で逸らされる。
話しかけてこないくせに。
そもそも今までろくに会話もしていない。
仲がいいわけでもない。
何も言ってこなくて当然だ。
なのに、落ち着かない。
絵を描くために見ているのか。
もう描き終えたのか。
どんな絵なのか。
なぜ自分なのか。
まさか誰かに見せるつもりじゃないだろうな。
見せる相手なんて、この学校にいるとは思えない。
それでも――考え始めると止まらなかった。
放課後。
気づけば、自分から声をかけていた。
「……新垣。前に言ってた俺の絵って……誰かに見せたりするの?」
「しないよ。そんなこと」
顔も上げない。
机に向かったまま、鉛筆だけが動いている。
淡々とした声。
普段あれだけ見てくるくせに。
「じゃあ、なんで描くんだよ」
鉛筆が止まる。
それから、ゆっくりと顔が上がった。
「……話しかけてきたってことは、この前の件、“いいよ”ってこと?」
「違っ」
即座に否定する。
「口の中、見せて」
真正面から、視線が突き刺さった。
「……絵に必要なの?」
新垣は黙って頷いた。
喉が渇く。
舌が上顎に張りつく。
「……やっぱ無理。恥ずかしいし」
視線を逸らした、その瞬間だった。
距離が消えた。
顎を掴まれる。
指先が骨に食い込み、逃げる方向を封じる。
触れられているのは顎だけなのに、身体ごと支配された気がした。
「こうするの。“あ”って」
新垣が口を開ける。
無機質な見本だ。
反射的に、真似てしまう。
「もっと大きく開いて」
命令口調ではない。
だが、逆らえない響きだった。
心臓が跳ね上がる。
制服のボタンを強く握りしめた。
何を見られているのか分からない。
何を思われているのかも分からない。
ただ――覗き込まれている。
口の中を。奥まで。
「……やっぱり」
顎から手が離れる。
「口の中、綺麗だね」
無感情で、歯医者さんみたいな言い方だと思った。
それだけ言うと、新垣は何事もなかったように席に戻った。
「次は上の服脱いで」
「え、嫌だ」
「なんで」
疑問ではない。
拒否される理由が理解できない、という響きだった。
「絶対嫌だ。……この前みたいに誰か来るかもしれないし」
「なら、どこならいいの?」
「どこって……家とか?新垣の」
「無理」
即答だった。
もちろんどこならいいとかそういう問題ではないし、仲良くないクラスメイトの家になんて行きたくなかった。
ただ自分の意見を聞き入れない姿勢に腹が立った。
「はぁ?そっちの頼みのくせに……こっちだって無理だよ」
沈黙が落ちる。
新垣は、じっとこちらを見た。
何かを測るように。
やがて、鞄を持ち上げる。
「じゃあ美術室」
振り返らないまま歩き出す。
「あそこなら誰も来ない。部員、俺一人だし。鍵もある」
拒否する隙がなかった。
ついてくることを前提にした歩き方。
本来なら考えるべきなにかを考える前に、
身体がその背中を追っていた。
美術室の電気が点く。
カーテンが閉められる。
扉が内側から施錠された。
かちり。
逃げ道が消えた音。
新垣は椅子に座り、スケッチブックを開く。
「はい」
準備はできた、という意味だろう。
中川は立ったまま動けない。
ここまで来てしまった。
自分の意思で。
シャツのボタンに指をかけたまま止まる。
新垣は何も言わない。
ただ待っている。目を逸らさずに。
なんか言えよ、と思う。
命令でも何でもしてくれたら、言い訳できるのに。
無理やりなんだって。
仕方ないんだって。
自分から脱ぐなんて、
見られることを望んでいるみたいじゃないか。
「あのさ……やっぱり脱ぐのは無理」
新垣の眉が、ほんの少し寄る。
「……でも、これぐらいなら」
シャツの裾を持ち上げる。
へその上まで、肌が露わになる。
それ以上は見せない、という抵抗。
譲歩ではなく、拒絶のつもりだった。
なのに。
新垣の目が――はっきりと輝いた。
「それ、いいね」
薄く笑う。
「そっちの方がいい」
手のひらが一気に汗ばむ。
顔に血が集まり、耳まで熱くなる。
喜ばせてしまった。
まるで罠にかかったみたいだった。
これ、脱ぐより恥ずかしいんじゃないか。
指先が震える。
震えているのに身体中から汗がじわりと滲む。
世界がぐらぐらと揺れているみたいだった。
その中で、新垣の視線だけがはっきりしている。
「そんなに恥ずかしいの?」
なぞるような声音。
気づくと呼吸が浅くなっていた。
抑え込んでいた身体の反応が、さらに意識される。
悟られたくない。
悟られたくないのに。
「泣いたりはしないよね」
睨みつける。
新垣は──嬉しそうに笑った。
ぞっとするほど。
「これが最後だから。これ以上はもう何も言うこと聞かないから」
宣言のつもりだった。
自分への言い聞かせでもあった。
新垣は返事をしない。
ただ、鉛筆を走らせる。
紙を擦る音だけが、静かな部屋に響く。
描かれている。
自分が。
この姿で。
それを意識すると、身体が言うことを聞かなくなる。
だから、必死で別のことを考える。
やがて鼓動が少し落ち着き、深く息を吸う。
「あのさ……他の人も描いたりするの?」
「……描くよ。たまに」
「ふーん」
「嫌なやつの顔とか描いて、ぐちゃぐちゃにしたりする」
さらりと言う。
「え……」
「中川くんのは、そういうのじゃない」
じゃあ、どういうの?
聞けない。
聞いたら何かが決定的に変わる気がした。
再び、鉛筆が走る。
「……こういうの、他の人にはやらない方がいいと思うよ」
おそるおそる言う。
視線がぴたりと合う。
「あ、違っ……俺はもうしないけど……その……」
言葉がまとまらない。
言いながら、また体温が上がっていく。
首筋を汗が伝う。
新垣が、ふっと笑った。
「やっぱり面白い」
鉛筆が止まる。
静かに、確かめるように言う。
「恥ずかしいことってさ、同時に気持ちいいよね」
シャツを掴む手に力が入る。
「本当にやめたいなら、もうシャツ下ろしていいよ」
新垣は視線を外さないまま言った。
「……でも下ろさないでしょ」
図星だった。
逃げるつもりなら、ここへ来ない。
服を掴んだまま立ち続けたりしない。
新垣は何もしていない。
ただ見ているだけだ。
それなのに──
どうして自分は、こんな姿で立っているんだろう。
やめろ──
そう思うのに。
手が、下ろせない。
新垣が静かに言う。
「ほら」
「ちゃんと見せて」
命令でもないのに。
中川は──
シャツをさらに少しだけ持ち上げた。













