朝、下駄箱で伊坂に会った。
「おはよ」
いつも通りの声。
あまりにもいつも通りで、一瞬だけ言葉が詰まる。
「……おはよ」
なんだ、変に意識していたのは俺だけか。
そう思った時。
伊坂がほんの少し、はにかむように笑った。
柔らかい笑い方。
それだけで、張っていたものがふっと緩む。
「昨日さ、図書室で調べてたんだよ」
なんで今それを言うのか、自分でも分からない。
「スルメのこと。でもさ、何も出てこなくて」
伊坂がこっちを見る。
視線が合う。
「まあ……役に立たなかったけど。お前のために動いてたんだよ」
言ってから、ダサいなと思う。
アピールみたいで。
でも、引っ込められない。
「俺ぐらいのもんだよ。こんなさ──」
お前のこと思っているのは。
言いかけて、やめる。
伊坂は一瞬きょとんとして、それから──
「……うん」
嬉しそうに、頷いた。
その顔を見た瞬間。
胸の奥が、じわっと熱くなる。
──ああ、よかった。
そう思うのに。
同時に、引っかかる。
こんな顔、今まで向けられたことあったか?
まるで。
――好きなやつに向けるみたいな。
俺がそう思いたいだけかもしれない。
でも。
伊坂の言葉がよぎる。
――俺じゃなくなるかもしれない。
「……なあ」
気づけば、口が動いていた。
「今日も一緒に飯、食わない?」
理由はある。
試したいことがある。
でも、それだけじゃない。
確かめたい。
目の前にいるのが、ちゃんと伊坂なのか。
伊坂は少し驚いた顔をして、それからすぐ笑った。
「うん」
迷いのない返事。
その表情に、また胸がざわつく。
嬉しいはずなのに。
どこかで、警戒している自分がいる。
昼休み。
もうお馴染みとなった体育館倉庫。
俺の考えはシンプルだった。
スルメを完全に手懐ける。
そうして、できれば伊坂から引き離す。
それが一番現実的な解決策に思えた。
弁当を食べ終えたあと、俺はスルメに向かって手を伸ばした。
「ほら、こい」
触手が、すぐに反応する。
するりと伸びてきて、手首に絡みついた。
ぬる、とした感触。
でももう、嫌悪はない。
むしろ自分の言うことを聞くそれが、少しだけ可愛く思える。
「お前、ほんと懐いたな」
軽く腕を動かすと、ついてくる。
もっと遊んでほしいみたいに。
吸盤が、指に触れる。
ぴたり、と吸いつく。
わずかに引かれて、意識がそこに持っていかれる。
「……変な感じ」
視線を上げると、伊坂がこっちを見ていた。
じっと。
何かを確かめるみたいに。
「なに」
「いや……」
伊坂が目を逸らす。その頬が少し赤い。
そのとき。
スルメが、もう一本触手を伸ばしてきた。
腕の内側。
柔らかいところをゆっくりとなぞる。
「……っ」
思わず息が止まる。
さっきよりはっきりと、なぞられた場所が敏感になる。
なんでこんなに気持ちいいんだろう。
これじゃ遊んでるってより──
軽く振り払おうとした。
「おい、調子乗んな」
けど、完全には振り払えない。
そのまま、しばらく触れさせたままにしてしまう。
伊坂が、小さく息を吐いた。
「……なんか変なもん見せられてるみたいでやだ」
「何が」
「町田とエッチしてるみたいな気分になんだもん」
その言い方がどこか、自分のことも含んでるみたいに聞こえる。
今朝見た夢が、頭をよぎる。
途中で目が覚めた、あの中途半端な夢。
伊坂のことをちゃんと見られなくなってしまう。
――ただでさえ、意識しまくってるのに。
「なあスルメ」
触手が、ぴたりと止まってこちらを向く。
「伊坂が変なこと言ってくるから、ちょっと黙らせて」
もちろん冗談のつもりだった。
でも。
一瞬の間もなく、触手が動いた。
「ちょ、おま……!」
伊坂の身体が、マットに押し倒される。
腕も、足も、絡め取られる。
口に触手が触れて、声が途切れる。
――やりすぎだ。
そこまでしろとは言ってない。
そう思いながらも目が離せない。
自分の中から出ているものに、押さえつけられている伊坂。
逃げられない体勢。
わずかに浮く腰。
はだけたシャツ。
腹の口の周りで、触手が蠢く。
誘うみたいに、こちらへ伸びる。
一歩。
足が出る。
もう一歩。
近づく。
――その先を、想像する。
喉仏が上下し、唾を飲み込む。
でも。
「……違う」
頭を振る。
「違う。スルメ、やめろ。……こんなことがしたいんじゃない」
頬に触手が触れる。
「スルメ!」
強く言う。
その瞬間、触手が引いた。
伊坂の身体が解放される。
息を荒げながら、こちらを見る。
焦点が少しだけ合っていない。
熱を帯びた目。
「ごめん。こんなつもりじゃ――」
言いながら、スルメを見る。
それから、伊坂を見る。
「なあ、スルメ」
触手が、わずかに揺れる。
「伊坂から、離れてやってくれない?」
触手の動きがぴたりと止まる。
「お前さ、俺の言うこと聞くだろ」
動きを止めた触手に触れる。
説得するみたいに。
「伊坂じゃなくてもいいだろ。
そしたらまた、俺が遊んでやるよ。こうやってさ」
触手をゆっくりと握った。
吸盤が、指に吸いつく。
「だから、離れてくれよ」
少しだけ間があった。
スルメが、ぐ、と縮こまる。
伊坂の腹の方へ、潜り込むように。
まるで、戻る場所を選ぶみたいに。
「……それはできないよ」
声がした。
伊坂の口から。
「ごめんね」
目が合う。
喉が詰まる。
「……なぁ、伊坂は伊坂だよな?」
やっと、絞り出すように言った。
「……うん」
伊坂はそう言って、視線を逸らした。













