見られている。
視線が、肌の上をゆっくりとなぞる。
触れていないのに、触れられているみたいだった。
中川は、シャツを掴んでいるのとは反対の手で第一ボタンを弄ぶ。指先が落ち着かない。
「新垣……全部脱ぐ?」
顔を上げると、新垣はじっとこちらを見ていた。鉛筆は止まっている。
何か言いかけて、言葉を飲み込む。
その一瞬の沈黙の中で――頬を、温かいものが伝った。
「なんで泣くの?」
「泣いてない」
すぐに袖で拭う。けれど次から次へと溢れてくる。
「……嫌だった?」
「……分からない」
本当に分からなかった。
怖いのか。
恥ずかしいのか。
期待しているのか。
自分を俯瞰すればするほど、涙は止まらなくなる。
──馬鹿だ。惨めだ。最低だ。
こんなはずじゃなかったのに。
膝が崩れ、床にぽたりぽたりと雫が落ちた。
視界の端に、新垣の制服のズボンが映る。
顔を上げると、新垣は肩を揺らして小さく笑った。
喉の奥で鳴らすような、押し殺した笑い。
──本当は、こんな姿、誰にも見られたくなかった。
差し出されたティッシュで鼻をかむ。赤くなった目で見上げると、今度は笑っていなかった。
ただ、真剣に見ている。
その視線に耐えきれず、顔を逸らす。
「……そんなに見んなよ」
「全部見てほしかったんじゃなかったの?」
息が止まる。
「違う……!」
美術室に沈黙が落ちる。外は薄暗くなり始めている。
きっと何も違わなかった。
みんなが簡単に渡れる平均台を、落ちないように両手を広げて必死に歩く自分。
最初からその平均台を避けて通る新垣。
どこかで、似ていると思っていた。
でも違う。
自分は、落ちないように踏ん張る方を選んだ。
それでも。
そんな新垣にだけは、全部見せてもいい気がしていた。
見てほしかった。
分かってほしかった。
沈黙を破ったのは、新垣だった。
「触っていい?」
拒否の言葉が浮かぶ。
でも、それを言えば終わる気がした。
喉が上下する。
声は出なかった。
新垣が、ほんの一瞬だけ躊躇う。
それから、ゆっくりと近づいた。
呼吸がかかる距離。
手が伸びる。
首筋に触れた。
びくり、と身体が跳ねる。
冷たい。
驚くほど冷たい指先。
そのくせ、はっきり分かるくらい震えていた。
迷いのない顔をしているのに。
喉が上下するのが見える。呼吸がわずかに荒い。
――ああ。
こいつも分からないんだ。
自分が、自分たちがどうしたいのか。
そう思った瞬間、少しだけ安心した。
俺だけじゃない。
手の震えも、呼吸の荒さもどちらのものだかわからなくなる。
新垣の指が、シャツのボタンに触れる。
一つ、外れる。
「待っ……」
止めようと思えば簡単に止められる。
でも。
止めたくないのかもしれない。
シャツが肩から滑り落ちる。
露わになった肌に空気が触れ、鳥肌が立つ。
これ以上はダメだ。
そう思うのに、身体は動かない。
腕も脚も声も全部、新垣に預けてしまったみたいだった。
新垣の視線が、肌をなぞる。
見られている。
それはスケッチブック越しに見られているよりも、もっと丁寧に。
渡されたものを、確かめるみたいに。
次の瞬間。
指先が、腹に触れた。
「っ……!!」
声にならない息が漏れる。
ただ触れただけなのに。
指はそこにあるまま離れない。
押しもしない。
撫でもしない。
ただ触れているだけ。
それなのに。
くすぐったいような感覚が皮膚を通って奥まで落ちてくる。
熱い。
「……思った通り」
低く呟く。
「敏感だね」
指が、わずかに動く。
腹筋の輪郭を、ゆっくりなぞる。
「っ、ぁ……」
自分の声じゃないみたいだ。
「恥ずかしいね」
耳元で囁く声も、かすかに震えている。
「気持ちいいね」
否定したくても、身体が正直すぎる。
「でもさ、中川くんは本当はもっと色んな人に見られたいんでしょ?こういう姿」
その言葉で、はっとした。
「……嫌だ」
震える声で言う。
「こんなの誰にも見られたくない。……新垣にしか、見られたくない」
言ってから、自分で息を呑む。
新垣の目が、はっきりと揺れた。
新垣が体重をかけ、床に押し倒される。
「やめて」
今度は、はっきり言えた。
「それ以上……やったら」
声が途切れる。
どうなるのか分からないから、怖い。
自分にとっても。たぶん新垣にとっても。
新垣は、数秒だけそのまま固まっていた。
それから、ゆっくりと身体を離す。
「分かった。今日はここまで」
まるで授業を終えるみたいな口調だった。
新垣は立ち上がり、スケッチブックを閉じた。
外はもう暗い。
扉が開く。
「帰ろう。鍵閉めないとだから先に出て」
中川はしばらく動けなかった。
腹に残る感触が消えない。
耳元の声が離れない。
怖かった?
嫌だった?
恥ずかしかった?
それよりも。
――もう一度、と思ってしまった。
その事実に気づいた瞬間。
踏ん張って立っていた足元が崩れた。
「中川くん?」
自分が望んだから、新垣が壊した。
もう、元には戻れない。













