前田先生とは最寄りの駅が同じだ。
別の車両に乗り、ホームでは数メートル後ろを歩く。それが、いつの間にか習慣になっていた。
授業中にいつも先生からの視線を感じる。
その視線がどういう類のものなのか、考えない日はなかった。
だからといって、尾行をすることに何か理由があるわけではない。
強いて言うなら、ただの暇つぶしだ。
分かったことといえば、先生はいつも駅前のスーパーで惣菜を買い、自宅のあるマンションへ帰るということくらいだった。
正直、飽き始めていた。
その日、先生は改札を出ると、マンションとは逆方向へ歩き出した。
足早に、公園の中へ入っていく。
僕はバレないように、でも見失わないように、時々後ろを振り返りながら雑木林の中へと入っていく先生の後を、木の陰に身を潜めながらついて行った。
胸の奥がざわつく。
林を抜けると、点滅する街灯の下に古い公衆トイレがあった。
周囲には、他に街灯も、人影も見当たらず、そこだけがどんよりと空気が重たく感じた。
先生は一度立ち止まり、周囲を見渡してから中へ入っていった。
物陰に移ろうと腰を浮かせた瞬間、別の足音が近づく。
咄嗟に、しゃがみ込んだ。
現れたのは、大柄な男だった。
全身黒ずくめで、黒いキャップを深く被っている。
目は合っていない。
それでも、通り過ぎざまに少し口角の上がった口元が見えて、背筋が冷えた。
引き返すべきだと思った。
それでも、その男がトイレの中へ消えていくのを見てしまった。
ここまで来て、何も見なかったことにして帰れるはずがなかった。
トイレの裏手に回り、少し空いた窓に顔を寄せる。
中から、低い話し声が聞こえた。
言葉は聞き取れない。
けれど、その一方が前田先生であることだけは、はっきり分かった。
何も聞こえなくなって、窓からそっと中を覗いた時、狭い個室の中で、二人の距離はほとんどなく、身体の輪郭が溶け合うように重なっているのを見た。
先生のシャツは乱れ、襟元が崩れていた。
男が一歩踏み込むたび、先生の背中がタイル壁に押し当てられる。
そのたびに、喉の奥から抑えきれない息が零れるのが見えた。
一瞬、先生の視線がこちらを捉えた。
確かに、目が合う。
逃げる暇もないまま、先生はゆっくりと目を閉じた。
そして、そのまま身体の力を抜き、男に身を委ねる。
動きは止まらない。
むしろ、先ほどよりも深く、相手を受け入れるように、体重を預けていく。
荒くなる呼吸。
壁に擦れる音。
二人の影が、狭い空間で絡み合って揺れている。
見られていることを先生は分かって、なおも快感に身を委ね続けている。
僕は気づけばズボンの中で苦しいほどに硬くなったそれを手にしていた。
チカチカと点滅する街灯の下で、目の前の光景に全身が釘付けになり、そして果てた。
「先生はなんであんなことをしているんですか?」
教室でそう口にすると、先生は一瞬だけ言葉を探すように黙った。
「あんなことって……何?」
分かっているはずなのに、はぐらかす。その仕草に、わずかな苛立ちが混じる。
「わざわざ、ここに僕を呼んだのは、その話をするためじゃないんですか」
先生は視線を落とし、机の木目を指でなぞった。
「……息抜きだよ」
短くそう言って、息を吐く。
「僕は煙草を吸わないし、アルコールも体質的にダメで飲めないし。だから、ああいう形でしか……うまく、発散できなくて」
言い訳みたいな言葉のあと、へらりと笑う。
あんまり見たことのない表情だった。
僕は何も言わず、教科書を開いた。
胸の鼓動を、ページをめくる音で誤魔化すために。
「ここ」
指さすと、先生は思ったより近くまで身を乗り出す。
その距離に、喉が鳴った。
「先生、別にここで息抜きしたっていいですよ。僕は誰にも言わないし」
先生は驚いたように顔を上げ、すぐに眉を寄せた。
「ばか。ちゃんと教えるから」
ノートに書かれる数式。
それを追うふりをしながら、意識は別のところに引きずられる。
触れそうで触れない距離。
微かに感じる体温と匂い。
「中川くん、ちゃんと聞いてる?分かった?」
顔を覗き込まれて目が合う。身体が一気に熱を持つ。
「…気づかんふりして誘うのって、先生の癖ですか?」
顔を近づける。
先生は何も言わない。
けれど、逃げもしなかった。
あの日と同じ顔をした先生の唇に、自分の唇を重ねてみる。
先生の舌先が僕の下唇をそっと撫で、僕が唇を開くとすっと引いた。
僕は舌を先生の口の中に侵入させ、舌を絡ませた。
ここからどうしようか。
考え出す間もなく、先生の手が僕のベルトをはずし、ズボンのチャックを下ろした。
床にしゃがんだ先生はたらたらと溢れる目の前のそれを舌ですくうように舐めると、全部を口に入れてゆっくりと動かした。
「う‥‥ッ、あっ‥‥ヤバいかも」
音、感覚、先生の視線。
腕の下でよれたノート、背徳感さえも身体が全部を拾って、快感に変えていく。
「…ハァ‥‥ハァ‥‥」
開いたままになった口から息が漏れる。
先生の頭を撫でる。
少し腰を浮かせると先生の喉から声にならない声が漏れた。
「先生…もう……ああッ」
腹が痙攣を起こしたように波打ち、どくどくと流れていった。
先生はそれを口で受け止め、すっくと立ち上がった。
ペタペタとサンダルを鳴らし、教卓の中に手を突っ込むと、使いかけになったトイレットペーパーを取り出した。
それをぐるぐると手に巻き付けて出すと、そこに口の中にあったものをたらりと出して、白衣のポケットに入れた。そして僕にトイレットペーパーを手渡すと電気を消した。
「もう帰り」
先生はそう言って、視線を外した。
僕は教科書とノートを鞄に収め、ベルトを締め直して立ち上がる。
忘れ物はないか、と独り言みたいに呟きながら教室を見回し、鍵を手にした先生のほうへ向き直った。
「先生」
呼び止めると、先生は一瞬だけ動きを止める。
「また……教えてほしいです。先生に。ここで」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
先生は頭を掻き、ゆっくりと息を吐いてから、僕から目を逸らす。
「中川くんさ……」
言いかけて、言葉を探すように一拍置き、背中を向けた。
「……分からないところがあったら、いつでも教えるよ」
それだけ言って、廊下へと歩き出す。
ペタッ、ペタッ。
年季の入ったサンダルの音が、ゆっくりと遠ざかっていく。
足元が、じわじわと沈んでいくような感覚。
引き返せない場所に、いつの間にか踏み込んでしまった気がした。
それなのに――
不思議と、悪くなかった。
このまま、ここに留まっていたい。
そんな考えが、胸の奥に静かに根を張っていた。
ーENDー












