教室の空気には、まだ新しい布の匂いと、扉から吹き込む春風が混じっていた。入学式を終えたばかりの教室には、桜の花びらがふわりと舞い込み、学ランとセーラー服の擦れる音がそこかしこから聞こえてくる。
中学に上がり、三クラスが七クラスに増えた。見知らぬ顔が半分以上を占める教室で、佑は同じ小学校の友人たちと固まって談笑していた。だが視線は自然と周囲を彷徨う。にぎやかさの中で、ただ一人だけ、席から微動だにしない生徒がいた。
自己紹介の時間、彼は静かな声で
「熊谷佑規《くまがいゆうき》です」
と告げた。
眼鏡の奥の瞳はどこか曇っていて、癖のある髪が頬にかかり、彼の机に掛かった真っ白な鞄だけが妙に光を帯びて見えた。
帰りの時間。誰とも言葉を交わさなかった彼の横を通り過ぎようとしたとき、佑の足は自然と止まった。
「熊谷くん、西門、東門?」
「西門」
「ならさ、一緒に帰ろ」
話しかけた理由は簡単だった。今日一日ずっと浮かない顔をしていた彼がどんな人なのかをただ知りたかった。
「……友達は?」
「みんな東門やねん。……それにほら、佑規の“佑《ゆう》”と、“佑《たすく》”って同じ漢字」
佑が空中に“佑”と指で書くと佑規はようやく口元を緩めた。
「なにその理由」
その笑い方は、さっきまでの無表情とは別人みたいだった。
歩く途中、佑は彼の事情を知った。佑規は小学校卒業と同時に引っ越してきたのだという。いわば転校生。誰とも喋らずじっとしていたわけが分かった。
家の前に着くと、白を基調とした新築の家の横から大きなゴールデン・レトリバーが駆け寄ってきた。あまりの光景に「ロイヤルファミリーやん……」と心の中で呟きながら、佑は手を振った。
次の日から彼は、佑の方へ自ら声をかけてくるようになった。休み時間には佑の友人たちにも混ざり、体育でペアを組む場面では迷わず佑の隣に立った。
彼の家に遊びに行けば、母親が次々にお菓子を並べてくれた。真っ白な壁紙を汚しそうで佑が落ち着かないでいると、ゴールデン・レトリバーが廊下を全力で駆け回り、そんな心配は一気に吹き飛んだ。
「お前ら二人仲いいよな」
友人が言ったその一言には、あんまりお前ら二人だけで仲良くすんなよといったニュアンスの、どこか引っかかる棘を感じる言い方だった。
たしかに、気づけば学校の行き帰りも休み時間も、いつも佑規と一緒だった。
「仲良いもんは仕方ないやん。な、佑」
そう言って佑規は佑の手首を取るようにして「トイレ行こう」と教室を出た。
廊下に出ると、さっきの穏やかな顔とは違う表情を見せた。
「あいつら……俺、ちょっと苦手」
吐き捨てるような声音だった。
意外だった。なぜそんな風に思うのか佑には分からなかった。
だが彼は、佑以外のクラスの誰に対しても、あまり距離を縮めようとはしなかった。
女子には密かな人気がある。その“顔の良さ”が、彼を孤立させない唯一の理由のようにも感じられた。
その一件から佑はますます佑規にとって特別な存在になってきていることを感じていた。なぜ自分だけをこんなに追いかけてくるのか。理由は分からない。
ただ、胸の奥で何かが揺らいでいた。
佑は少し距離を取ろうとして、意識的に友人たちと話す時間を増やした。
佑規は黙って佑の背を見つめていた。その視線が胸の奥をざわつかせた。
──このままじゃ、彼が、クラスの中で浮いてしまう。
そう思ったのも、たしかに本心だった。
それ以上に、少し息苦しさを感じ始めていたのかもしれない。












